テモテ第二4章

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。

4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

 御言葉を宣べ伝えることを命じました。御言葉によって教えられることで、キリストの裁きの前に良い評価をいただき、御心を行ったことに対する報いとして御国を相続するからです。

 この「御言葉を宣べ伝える」ことは、未信者に対する福音伝道のことではありません。まず、その列挙された内容から、これは、信者に対するものです。「責め、戒め、勧める」ことは、信者に対してすることです。この三つのことは、「教えながら」することとして記されています。

 また、次節に宣べ伝える理由が示されているように、信者である者たちが健全な教えから離れるようになるからで、この教えの目的が信者に対するものであることがわかります。

4:3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、

 宣べ伝える理由は、人々が健全な教えにとどまることをしなくなり、耳に心地よい話を求めて、自分の強い願望によって自分たちのために教師を寄せ集めるからです。健全な教えは、肉による歩みを認めません。彼らの求めることは、自分自身のためです。さらにいうならば、自分の肉のためです。それで、自分に都合のよいことを語る教師を寄せ集めるのです。

・「耐えられなくなり」→「とどまる」ことができなくなる。耐えるとした場合、教えがきつすぎて耐えられないというような印象を与えますが、そうではありません。自分の願望に合わないので、我慢出来ないのです。

・「自分の好みにより」→「自分の強い願望によって」

・「耳に心地よい話を聞こうと」←「耳をかく」。痒いところをかく。動詞は、中態。自分が心地よいことを求めるし、また、提供されるのです。

4:4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

 その結果、真理から耳を背けます。真理は、神の御心を行い栄光を受けることです。その真理の知らせから離れた作り話にそれていくような時代になります。

・「真理から耳を背け」→「真理の知らせ」から離れ去る。

4:5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

 そのような悪い時代であっても、テモテがどんな場合でも慎むように勧めました。伝道者自身が慎みを忘れたら、教える者にふさわしくないのです。

 苦難に耐え、伝道者としての働きをなすのです。

 伝道者は、ここでの役割の中心は、信者に教えをなすことです。

4:6 (なぜならば)私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。

 テモテにこのように進める理由を記しました。パウロ自身が既に注ぎの捧げ物となっているからです。「既に」と表現しましたが、まだ実現していないことです。彼は、その時が確実に来ることを強い調子で言っているのです。

 「世を去る時が来ました。」と。その時が間近いことを強調しています。

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 パウロは、勧めをしましたが、同時に自分の模範を示しました。彼は、主の目にかなった称賛に値する戦いを戦いました。

 また、走るべき道のりを走り終えました。彼は、逸れなかったのです。

 さらに、信仰を守り通しました。信仰を維持し、損なわれることがなかったことです。示された御言葉のうちを歩みそれなかったことです。

・「勇敢に」→称賛に値する。

4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

 彼は、義の栄冠を望みとしていました。それが用意されていますと言い、彼がなしたことが、主の目に適っていることを確信しています。主は、正しい裁き主です。ですから、義の冠を授けます。御心に適っているかどうか判定されます。

 主が正しく裁かれることを慕い求め人は、正しい歩みを求める人であり、そのような人は、義の冠を受けるのです。慕う、言い換えるならば愛することは、それにふさわしい行いをすることです。

・「主の現れを慕い求めている」→「愛している アガパオ」主の現れは、主が善であれ、悪であれ裁かれる時です。その時を慕い求めている人は、主の目に適った者としての評価を受けることを求めて生きている人です。

4:9 あなたは、何とかして早く私のところに来てください。

4:10 デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。

4:11 ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。

 テモテが早く来ることを求めました。パウロとともに働く者たちが、彼のもとから離れたのです。ただし、彼の近くから全ての兄弟が離れたということではありません。二十一節には、挨拶を送っている他の兄弟たちのことが触れられています。パウロの元を離れた人々については、マルコについて記されている「役に立つ」人々であったのです。ここでは、そのような観点で記されています。パウロとともに働くことができる能力をもった人たちのことです。もちろん、霊的な資質も備えている人たちです。

 デマスが去ったのは、世を愛したからです。パウロを見捨てました。パウロと共に証しを担うことをやめたのです。そのことは、十六節の言葉からわかります。世からの迫害を避けることは、世を愛することです。この世での幸せを求めたからです。

 クレスケンスとテトスは、それぞれの役割を担ってそれぞれの場所に赴きました。残ったのは、ルカ一人です。マルコに関して、「私の努めに役に立つ」と言っていますので、パウロの勤めが成し遂げられるためにテモテも必要だったのです。

 なお、マルコについて、伝道旅行から一度離れたことがありますが、それは、彼の失敗であって、この記事から彼が回復したという解釈がありますが、当たりません。マルコが途中から離れた理由については記されていません。ここで、伝道旅行がつらかったからだという説明がありますが、記されていません。記されていないことについて、論じることはできないのです。

 パウロが同行させないと主張したのは、すでに伝道した所の信者を励ますためです。マルコは、働きに召されていて、同行したのです。しかし、働きがまだある時点でその働きへ同行しなかったのです。彼に委ねられたものを全うしませんでした。そのように、主の召しである働きから途中で離れた人が、迫害の中で信仰によって堅く立っている人を励ますことはできないのです。彼には、その点に関して証しを損なっていました。マルコが離脱した理由は関係ないのです。

使徒

15:36 それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」

15:37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。

15:38 しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。

15:39 こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、

15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。

15:41 そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。

16:1 それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。

16:2 彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

16:4 彼らは町々を巡り、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を、守るべきものとして人々に伝えた。

16:5 こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった。

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4:12 私はティキコをエペソに遣わしました。

 ティキコについては、エペソに遣わして、パウロとともにはいません。

4:13 あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。

 冬を前にして、外套が必要でした。主の働きのためには、健康が保たれることも必要なことです。健康を軽視することは、自分に与えられた役割を軽視することです。もちろん、病気も死も神の手のうちにあることですが、自分のなすべきことを放棄して良いということにはなりせん。

 そして、パウロの働きのためには、聖書が必要でした。これは、必要なものであったのです。

 これは、自分のために学びたいからということではありません。ある人は、死が間近に迫っていることを覚えていながら聖書を学ぼうとする態度は、見上げたものだと言いますが、彼が御言葉を述べ伝えるために必要なので、持ってくるように言っているのです。

4:14 銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。

4:15 あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。

 銅細工人アレクサンドロは、パウロを苦しめましたが、具体的には、パウロたちの言葉に激しく逆らったことです。パウロたちが伝えていた御言葉を否定して逆らったことです。そのような者に対して主が報いられます。テモテに対しては、彼を警戒するように言いました。

 アレクサンドロは、未信者ではありません。未信者の言動であるならば、困難は経験したとしても、集会の交わりの外の人ですから、その言動を放っておけば良いのです。しかし、テモテに対して警戒するように命じたのは、集会の交わりの中の人であるからです。

4:16 私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。

 パウロの最初の弁明の時、誰も彼を支持しませんでした。パウロを見捨てたと表現されています。ともに証しを担わないことは、主から咎められることになる可能性があります。しかし、すべてのことは、主による業です。必ず裁かれるとは限りません。主によって示されているにもかかわらず、パウロと共に証しのために立たなかった人がいれば、主が責任を問われます。

4:17 しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。こうして私は獅子の口から救い出されたのです。

 ともに証しを担う者はありませんでしたが、主は、共に立たれ、力を与えられました。主は、パウロを用いて御言葉を宣べ伝えようとされたからです。

 彼は、獅子の口から救い出されたと言いました。この救い出すことは、次節の未来形として記されている「救い出し」と同じ言葉で、主が救い出されることです。全ての悪き業から救い出されることを言っています。

4:18 主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 悪しき業とは、パウロが御言葉を余すことなく宣べ伝えることを妨げる業です。それが彼に与えられた役割です。そして、その働きには、報いが伴います。それが御国に入ることです。「御国に入る」ことがいわゆる救いの立場を表していないことは明らかです。パウロは、信仰によって既に救いの立場を頂いているのです。彼が悪き業によって、その働きを妨げられ、なすべきことが出来ずに報いを失うようなことがないように救ってくださったのです。

 そのように、人を用いて業をされる主に栄光が世々限りなくあるように祈りました。

4:19 プリスカとアキラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。

 プリスカは、アクラの妻です。先に名を挙げることで、プリスカの歩みは、夫に付随しているだけのものではなく、自ら進んで信仰に歩んでいることを評価しているからです。妻が夫に服従することは、御言葉に適ったことです。その立場をわきまえているからこそ評価されます。そのうえで、自ら御心に適うことを求めて歩んでいるのです。アクラも信仰の人です。そして、オネしポロの家族も、信仰の人です。パウロに対して示した行動によってそれが明らかです。

ローマ

16:3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。

16:4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

16:5 また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。

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 アキラとプリスカの働きについては、「二人は」と記されていて、心ひとつにして、同じように行動したのです。

テモテ第二

1:16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけ、私が鎖につながれていることを恥と思わず、

1:17 ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました。

1:18 かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように。エペソで彼がどれほど多くの奉仕をしてくれたかは、あなた自身が一番よく知っています。

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4:20 エラストはコリントにとどまり、病気のトロフィモはミレトスに残して来ました。

 他にも、パウロとともに働くことができる人々の現況を知らせました。

4:21 何とかして冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウディア、そしてすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。

 それで、テモテが必要なのです。テモテに挨拶を送る他の人々がいました。彼らは、パウロとともに働きを担う能力はありませんが、パウロとともにいる人たちであり、テモテへの愛情を持つ人たちです。この手紙では、テモテの御言葉を宣べ伝える役割を果たすということに焦点が当てられていますので、働きをする能力があることが前提となっていて、その能力を持つ人たちが、その役割を果たさないことを問題としています。

 今日も、御言葉を述べ伝えることに関して、その能力のある人とそうでない人がいます。全員が述べ伝える能力と資質を持っているかと言うとそうではないのです。

4:22 主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。

 霊は、教えに関わっていて、御言葉を受け取る部分です。そして、知識に基づいて教えをなす部分です。主が、霊とともにいることは、それらの働きを主が御心に適ってなさしめてくださることを願っています。

 恵みは、神様が備えた祝福です。信仰によって受け取ることができます。この場合、その祝福は、テモテに関しては、彼が御言葉を信仰によって受け入れ、そして、宣べ伝えることです。それに対して、御国で報いを受け取ることです。それが御国の相続です。他の信者に関しても、神の御言葉にかなった歩みをし、報いを受けることです。それが恵みの実現です。